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劇場版 魔法少女まどか☆マギカ [新編] 叛逆の物語
そんなの気にする人はこんなとこ来ないとは思うのですが、念のため、いわゆる「ネタバレ」です。

「劇場版 魔法少女まどか☆マギカ[前編]始まりの物語」と「[後編]永遠の物語」(以下「前作」)で「神」になったはずのまどかが開巻早々魔法少女として登場し、さやか・杏子・マミの3人の魔法少女と共に活躍している。なにもなかったかのように前作のファーストシーンの鹿目家の朝の風景が、のどかな劇伴までそのままに再演されるが、前作のラストでまどかのいない鹿目家を目にしている観客は、どういうトリックが仕掛けられているのかという目でこの後のストーリーを見守ることになる。ほむらの孤独を強調するオープニングタイトルを挟んで、まどかとさやかのクラス(今回はご丁寧に杏子まで一緒だ)にほむらが転校してくるという前作で何回となく目にしたシーンが繰り返され、どういうわけだかこの世界は4人の魔法少女が共同してナイトメアという悪役と戦う世界で、ほむらはその助っ人として仲間入りしたことがマミから明かされることになる。
マミさんの指揮のもと和気藹々とまるで普通の(笑)魔法少女のような活躍をする彼女たちの姿は、前作の魔法少女たちに与えられた厳しい試練を知っているファンにとっては、こんな世界があってもいいんじゃないかと思わずにいられなかった世界である。ご丁寧にお菓子の魔女を引き連れて、「プエラ・マギカ・ホーリー・クインテット!」なんて名乗りまで上げて活躍している姿に苦笑いしながら、しかし観客はこのありえない世界への違和感を、ようやく記憶を取り戻しつつあるほむらとともに感じることになる。確かにほむらが杏子に言う「あんたそんなキャラとちゃうやろ」的なセリフにはちょっと笑ったな。だいたい最初のほむら転校のシーンからして、人類破滅を祈る担任の早乙女先生の言動は(もともといささか誇張されたふるまいをするキャラクターではあったとはいえ)あまりに不穏であった。
いったい誰がこんな世界をでっち上げたのか…というほむらによる謎解きが前半のストーリーの柱なのだが、観客には実はその答えはかなり早いうちにわかってしまっているだろう。だいたい4人の(5人の)魔法少女たちの顛末をすべて知っている魔法少女はひとりしかいない。ファンが望んでいたような幸せな魔法少女を誰よりも望んでいたのが彼女であることも想像に難くない。(あの名乗りやお茶会も?まあそうであっても不思議はない)
かくして中盤は彼女の救済の話である。前作で悲惨なところしかなかったさやかが活躍したり、マミ×ほむらのバトルがかなり力を入れて描かれたり、果ては大魔女バトルまでとファンにはうれしい見せ場がたっぷり。さやかと杏子のシーンに思わずほろりとしてしまったのは私だけではないだろう。アシッドなイヌカレー空間は今回も文句なし。「新しい魔法少女」なぎさはほとんど名前も呼ばれず、いささか扱いとしては中途半端だが。
そんなこんなで、ようやく苦しみ続けたほむらの煩悩が浄化され、成仏するシーンを迎えることになる。さやかとなぎさとともに「神」まどかが降臨するシーンのベタさときたら、まるでふたりの脇侍を従えた阿弥陀如来のご来迎ではないか。本来感動的な場面なのだろうが、どちらかというと馬鹿馬鹿しさにちょっとあきれてしまっていたら、ここで盛大にちゃぶ台がひっくり返される。ここからが今回の「新編」の「新編」たる所以だ。
ほむらの変容については確かに衝撃的ではあるし、その内面の必然性をストーリーの中で理解できたかといえば怪しいところ。しかし、いまあらためて考えてみると、前作はあまりに破綻なく世界が完結しすぎていた。物語として見事に着地して感動的だったし、まどか的秩序の統べる世界ビジョンは美しい。でも人間の営みの中でそのような秩序をはみ出す部分は必ず発生する。前作でまどかの秩序から唯一はみ出して残されていたほむらのまどかに対する強い思いがその秩序を破壊するきっかけになることは図式的には理解できる。
ほむらはそれを「愛」と呼んだ。彼女の薄ら笑いを浮かべた薄い唇からこの言葉が発せられる瞬間はなかなか衝撃的である。でも彼女の言う「愛」って何? たとえばすべての魔法少女を救済したまどかの行為は、まさにキリスト的な無償の愛「アガペー」の発現だった(いや仏様の「慈悲」だという人もいるかとは思うけど)。それに対して、ほむらの「愛」はプラトン的な「エロス」だろう。プラトンは「エロス」を人間を突き動かす原動力になる、美しいものや完璧なものを求める衝動と定義づけた。まどかがその名の通り「円環」=秩序を示す概念となって世界を再構築したのに対して、ほむらはまどか=秩序を愛おしみながら突き破る炎=衝動としてその世界を引き裂いた。ほむらの叛逆は、いわば神に対する人間性の叛逆だったのだ。ロケンロール!

一度ひっくり返したちゃぶ台の撤収は早ければ早い方がいい。
そういう意味では本作の幕引きは悪くなかったと思う。ただ、おかげでほむらの干渉したあとの世界の成り立ちはほとんど明かされないままだ。魔法少女の立ち位置はどうなったのか。まさか悪魔ほむらがいまさら序盤の閉じた世界で行われていた茶番じみた微笑ましい魔法少女ごっこに満足しているとも思えない。基本的な世界の構造はまどか改変後の魔獣が跋扈する世界なのだろうか。
本編のラストはほむらとまどかの今後の壮大な相克の物語を予感させる対話で締めくくられる。もはやほのかには不要になったまどかの「遺品」がまどかに返されるくだりは胸に迫る。オープンエンディングとしては余韻があってよいと思うが、すっきりと片付いた満足は与えられない。
いや、矛盾するようだが、実は世界を説明するような面倒くさい説明じみた描写などこれ以上この作品中には必要ない。そんなのは続編にでも任せておいて(いや別に続編すらなくてもいいのだが)、感情的に悪魔ほむらの魅力に魅入られるようなシーンが最後にもう一つあればそれだけでよかったのにな、と思う。

もしかしたらエンドタイトルロール後のシークエンスがそうなりえたのかな、と思う。嫣然と微笑みながら軽くステップを踏んで姿を消すほむらの姿は悪くないけれど、それだけでは弱い。それにしてもあのボロ雑巾のようになったキュウべえの意味は?確か逃げ出そうとしたキュウべえを「役割がある」とこの世界に放り込んだのはほむらのはずだ。ここでFinのクレジットが出るのだが、このパートは物語の終わりを告げるシーンというより、「いったいどうなってるの?」と新たなる物語への興味をひっぱる、ぶっちゃけていえば次回予告のワクだよなあ。
確か前作もエンドタイトルロール後に短いシークエンスがあって、その時は戦い続けるほむらの姿なのかな、なんて適当に考えていたのだけど、今思えばほむらの後ろには悪魔の羽のような黒い裂け目が広がっていたのだった。
続編については大歓迎だ。今回語られなかった新しい世界秩序(もしくは混沌)についてじっくり語ってくれる話があってもよいと思う。秩序破壊者として大きく成長したほむらは、もとより漠然とした概念的存在であるまどかなんかよりキャラクターとしてもはるかに魅力的だし、物語のすわりとしても、もう一度まどかが逆襲する話があるべきだろう。

******

見どころの多い前半部での白眉は,やはりなんといっても事の真相に気づいたほむらがまどかに真情を吐露するシーンだろう。
ほむらの千々の乱れる心情にシンクロして花畑が次々と色を変えるバックにずっと流れていた音楽が、大林宣彦の「時をかける少女」のメランコリックな劇伴を思い出させた。原田知世が唐突に「愛」を口にしてとまどうあのシーンの音楽だ。思えばあの映画のヒロインも、時を超えて彷徨い、ただひとり誰もその存在を知らない恋人を待ち続けるのだったな。

10月26日(土)大阪ステーションシティシネマ スクリーン1
11月1日(金)梅田ブルク7 シアター1


劇場版 魔法少女まどか☆マギカ[新編]叛逆の物語
2013年日本 116分
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テーマ:アニメ - ジャンル:映画

【2013/11/08 00:08】 | 映画 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
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