FAKE
「ゴーストライター」騒動の渦中にいた佐村河内守とその妻の日常を追った森達也監督のドキュメンタリー映画「FAKE」を十三の第七藝術劇場で見てきました。平日のお昼間なのに、5~60人くらいは入っていたかしら、さすがに話題になってる映画です。
fake
以下、いわゆる「ネタバレ」です。たいしたことは書いてませんが、初見の印象を大切にされたい方は映画をご覧になってからどうぞ。

佐村河内さんの問題に関しては、本当は聞こえているんじゃないかとかそういうことにはあんまり興味がなくって。だってそんなのは所詮個人の感覚の問題だから、もともと何が聞こえていて何が聞こえていないなんて人それぞれで他人には分からないやん。耳が聞こえていないのにこんな素晴らしい音楽をなんて物語に感動して音楽を聴いていた人は怒るのはわかるけど、僕はぜんぜん関係ないからね。
それより興味があったのは、この人音楽家としてどこまで能力があったのだろうという部分。新垣さんに提示された詳細な「指示書」が映画中でも映し出されるのだけど、あれを見ると、確かにこの人何らかの尋常じゃないでっかいモノを持っているのは間違いない。でもそれが音楽の形になるまでには大きな距離がある。映画の中でも外国人ジャーナリストがかなり厳しく突っ込んでいて、そこで佐村河内は黙り込んでしまう。
だからこれはこの人、実は音楽的な才能とか技術はゼロなんだ、と思ってしまった。だから終盤、森監督が佐村河内に、「音楽を作りましょう」って持ち掛けた時には、まあなんていじわるなのこの人はって思ったw。
ところがここから(僕的には)映画が予想外の展開を見せるわけね。まるで良く出来たおはなしのように。
あのクライマックスを見ての最初の感想は、いやこの人それなりの音楽的な才能があるんやんという驚き。かなり素朴に俗っぽいけどね。でもそれは悪いことじゃない。そして映画は、そのまま佐村河内が披露する曲がドラマチックに盛り上がるのを奥さんが見つめるシーンでエンドタイトルが出る。おいおいおマジかよとあまりのベタさにちょっと笑ってしまいそうになってると、まだ続きがあって、最後の最後に冷水をぶっかける森監督。あそこまで盛り上げといてそれかよ!またしても佐村河内の長い沈黙で映画は終わる。え、あれってフェイクなの?
解釈を残すエンディングだけど、僕はあのクライマックスのシーン、そこまでずっとカメラの前ではスタイリッシュに「佐村河内らしい」ファッションで登場していた佐村河内が晒す無防備すぎる向う脛に、彼の自己演出を超えたリアリティを感じた。森監督のカメラの容赦なく入りこんでいく力は恐ろしい。猫ってかなり警戒心の強い動物だと思うんだけど、その猫さえもカメラに向かって無防備なお腹を見せるんだから。

あとは佐村河内家にお客様が来た時に必ず出てくるショートケーキw。そしてそれが最後に伏線であったかのように登場するという。いや、そうじゃない、そういうふうに編集してるんだもの。「ドキュメンタリーは嘘を吐く」というのは森監督の言葉だけど、それこそが映画のマジックだ。

FAKE
(2016/日本/HD/16:9/109分)
2016年6月14日 十三・第七藝術劇場にて
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【2016/06/14 21:50】 | 映画 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
大森靖子映画祭
十三でやっている大森靖子映画祭で大森靖子本人がミニライブを行うというので、ちょうど休みだしと、朝から十三に出てチケットを購入すると、整理番号が思わぬ好番号。いっぺん家帰って、奥さんと出かけてきた。

「大森靖子映画祭」というのは、どうやら大森靖子の出演する映画を集めた映画祭のようなのだけど、ちらしやポスター、HPなどのどこを見てもあらすじ以上の映画の情報は(キャストやスタッフ、上映時間すらも)まったく掲載されていない。実はすべての映画に大森靖子が登場するのかすらわからない。ただ、この日上映されたの2本の短編映画に関しては、少なくとも大森靖子が重要な形で登場するだけでなく、まぎれもなく「大森靖子の」映画であった。

1本目は 今泉和哉監督の「ターポリン」。室内でソーメン啜る男女の集団の何気ない会話が次第に気まずい空気になって行く様をずっとカメラがワンカットでとらえる。ついに飛び出した男をそのをそのままカメラが追い続け、到着した公園にギターを抱えた大森靖子がふらりと登場し…。
前半の若者たちの会話劇は6人のキャラクターが上手く書き分けられていて、ワンカットのいたたまれない間合いもよく効いていて手堅い。ところが不意に映画に侵入した大森靖子が、「歌謡曲」を歌い出した瞬間に、ここまでの映画の手堅いタッチをはみ出したその生々しい異物感で完全に映画を支配する。
毒気を抜かれたかのように迎えに来た女と元の映画の日常に戻っていく男の姿を、男を追っかけてきたはずのカメラが、大森靖子の視点で見送って映画は終わる。

大森靖子監督の「非少女犯行声明」は最初からもっとどうしようもなく「大森靖子の」映画だ。おそらく何かのイベント用につくられたもので、そういった文脈の中で意味を持つ作品なのだろう。何人かの女性への大森のインタビューを中心に構成されているのだが、iPhoneで撮影したと思われる親密な映像には時にどきどきさせられるけれど、それ以上に印象的だったのは、インタヴューイ以上にしゃべり続けるインタヴュアー大森靖子自身の声と語りだった。
映画のタイトルになった「非少女」というのはもしかしたら寸劇風のシークエンスにほのめかされているのかもしれないと、彼女自身へのインタビュー記事など読むと思うのだけど、この映画だけではあまり伝わらない。

「上映する映画が一番短くてかわいそうだと思ったから」ということで、この日は大森自身の「ミニライブ」が付くスペシャル興行だった。
インストアライブ程度の短いものを予想していたのが、ふたを開けたらギター弾き語り1時間以上の、映画の上映時間をはるかに超える、どこが「ミニ」やねんという本格的なライブで大満足。4~5曲だっとメドレーで歌ってしばらくしゃべり倒すというスタイル(本人曰く「さだまさしのスタイルを狙っている」)で、MC面白すぎる。曲は「絶対少女」の曲を中心だけど、ギター弾き語りだとかなり印象が違う。でも映画のいささか冗漫な自撮り歌唱シーンで終わるのではなく、生の大森さんの歌がちゃんと聴けたのがよかった。
「夏果て」の弾き語りの喚起力のヤバさは映画の中の謎の寸劇シーンの比ではなかった。

大森靖子映画祭(2/15、十三シアターセブン)

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【2014/02/17 10:04】 | 映画 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
ベイビー大丈夫かっ BEATCHILD1987
1987年に阿蘇山のふもとで豪雨の中行われた伝説のオールナイトフェスの記録映画、なのだけど、こんなイベントがあって、こんな事になっていたってことすら全然知らなかった。

1987年といえば大学を卒業して就職した年で、もはや尾崎豊に感情移入するような年齢ではない。じゃがたらがJAGATARAとして復活した年で、毎日CDウォークマンで「裸の王様」を聞きながら通勤していた。まあそれもどうかと思うが。
佐野元春は結構好きな曲もあったけど、アルバムをちゃんと聞くほどのファンではなかった。今でこそカラオケで歌ったりもするけど、当時はブルーハーツもテレビでしか見たことはない。あとは尾崎豊はおろか、ボウイも渡辺美里もハウンドドッグも、この映画に出てくるような大メジャーアーティストには、当時ほとんど興味がなかった。

そんな自分が一番感動したのが白井貴子&Clazy Boysのステージだったというのは、音楽というより映画の奇跡だろう。音楽的完成度で言えば、あの大雨の中一糸乱れぬプロフェッショナルなパフォーマンスを繰り広げたBOOWYや、トリの佐野元春& The Heartlandなんかの方がずっと優れているのかもしれない。
でも、開演直前の舞台袖の白井の、心底おびえたような、雨ざらしのステージに出たくないオーラ100%の表情から、とりあえずステージに出たはいいけれど機材トラブルで1曲目でギターの音が出なくなり、それでもバケツの水をひっかぶって、シャツを脱ぎ捨て上半身水着姿になって歌いまくるという一連のステージドキュメントには本当に心動かされた。
この日の上映は「ライブ上映」と銘打って、立ち上がったり歌ったり自由に楽しもうというイベント上映だったのだけど、白井さんの時はほんとに「頑張れ」って声かけたもん。それは実際にこのライブの会場で雨の中震えてステージを見ていた観客の目線じゃなくて、リハーサルやバックステージからの彼女の表情を見ていた映画観客の視線なわけで。

BOOWYのステージの完成度は凄かった。彼らだけバックステージ映像が一切使われていないのも、おそらく彼ら自身の意向なんだろうと思わせる、プロフェッショナルなステージ。別に好きなバンドではなかったけど、別格的なオーラを感じさせる。
岡村靖幸は実は初めて観た。プリンスみたいなリアルなエロいファンクは当時日本では珍しかったんだろうな。
ストリートスライダースは結構好きだったのだけど、ダルでブルージーなイメージの強い彼らが「Tokyo Junk」「Boys jump The Midnight」とアップテンポなナンバーで煽りまくるのは天候を意識してのセットだったのだろうか。
他にも、トップバッターのブルーハーツの連中が、次に出てきたRed Warriorsのマイクアクションキメキメのグラマラスなステージを袖から楽しそうに眺めてる様子とか、貴重なオフショットも楽しめる。

雨はトリの佐野元春&ハートランドが登場するころにはあがり、感動的なフィナーレを迎える。若き佐野さんのステージは本当に素晴らしい。「あの光の向こうに突きぬけたい」とはじまる「ストレンジデイズ」とか、「サムデイ」とかこのステージにはちょっとハマり過ぎってくらいの選曲だ。現地の人々もさぞかし盛り上がったことだろう。個人的には「99ブルース」の歌のグルーヴ感が半端なくカッコよかった。

しかしあれだね、サンダルやスニーカー履きの観客がビニール袋かぶって合羽がわりにしているのを見て、10年後の天神山の第1回フジロックを思い出さなかった人はいなかったろう。「不法駐車のためバスが遅れています」なんてアナウンスに、この時の経験が業界内で何も受け継がれなかったのかと愕然としたね。スマッシュの日高社長って熊本の出身じゃなかったっけ?
プロモーターらしきおっちゃんが司会でたびたび登場して、「コンサートは中止しません、みんな辛抱して頑張ってください」なんて力のないMCをたびたびかますのがどす黒い苦笑いを醸し出すのだけど、最後に登場した30年後の能天気ぶりはすばらしかった。最後の最後に出てきてそれかよ、直前の佐野元春のステージの出来過ぎな感動を見事にぶち壊してくれる、いいオチだったと思う。いやあ死人が出なくて良かったねえ。

まあそこで止めときゃよかったんだけどね。ラスト10分は本当に蛇足。ライヴ映像のダイジェストに合わせて出演者でもない現在のアーティストの曲が流れ、さらにえんえんと「ロックの神様は非情だ」みたいな下らないポエムがナレーションでかぶさる。最後に「ベイビー、大丈夫かっ」って、大丈夫じゃねえよ!
で、ようやく終わった!と思ったら、さっきのエンディング曲のPVが再度流れる。調べたらこの二人組、コンサートの主催のマザーの現在の所属アーティストなんだよな。権利関係難しそうなこの映画のオトナの事情山盛りがうかがい知れる。空々しいロックポエムがますます寒々しく思い起こされるのでした。

1月19日(日)塚口サンサン劇場(THEATER4)「ライブ上映」

ベイビー大丈夫かっ BEATCHILD1987
(2013年、139分)

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【2014/01/28 01:25】 | 映画 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
劇場版 魔法少女まどか☆マギカ [新編] 叛逆の物語
そんなの気にする人はこんなとこ来ないとは思うのですが、念のため、いわゆる「ネタバレ」です。

「劇場版 魔法少女まどか☆マギカ[前編]始まりの物語」と「[後編]永遠の物語」(以下「前作」)で「神」になったはずのまどかが開巻早々魔法少女として登場し、さやか・杏子・マミの3人の魔法少女と共に活躍している。なにもなかったかのように前作のファーストシーンの鹿目家の朝の風景が、のどかな劇伴までそのままに再演されるが、前作のラストでまどかのいない鹿目家を目にしている観客は、どういうトリックが仕掛けられているのかという目でこの後のストーリーを見守ることになる。ほむらの孤独を強調するオープニングタイトルを挟んで、まどかとさやかのクラス(今回はご丁寧に杏子まで一緒だ)にほむらが転校してくるという前作で何回となく目にしたシーンが繰り返され、どういうわけだかこの世界は4人の魔法少女が共同してナイトメアという悪役と戦う世界で、ほむらはその助っ人として仲間入りしたことがマミから明かされることになる。
マミさんの指揮のもと和気藹々とまるで普通の(笑)魔法少女のような活躍をする彼女たちの姿は、前作の魔法少女たちに与えられた厳しい試練を知っているファンにとっては、こんな世界があってもいいんじゃないかと思わずにいられなかった世界である。ご丁寧にお菓子の魔女を引き連れて、「プエラ・マギカ・ホーリー・クインテット!」なんて名乗りまで上げて活躍している姿に苦笑いしながら、しかし観客はこのありえない世界への違和感を、ようやく記憶を取り戻しつつあるほむらとともに感じることになる。確かにほむらが杏子に言う「あんたそんなキャラとちゃうやろ」的なセリフにはちょっと笑ったな。だいたい最初のほむら転校のシーンからして、人類破滅を祈る担任の早乙女先生の言動は(もともといささか誇張されたふるまいをするキャラクターではあったとはいえ)あまりに不穏であった。
いったい誰がこんな世界をでっち上げたのか…というほむらによる謎解きが前半のストーリーの柱なのだが、観客には実はその答えはかなり早いうちにわかってしまっているだろう。だいたい4人の(5人の)魔法少女たちの顛末をすべて知っている魔法少女はひとりしかいない。ファンが望んでいたような幸せな魔法少女を誰よりも望んでいたのが彼女であることも想像に難くない。(あの名乗りやお茶会も?まあそうであっても不思議はない)
かくして中盤は彼女の救済の話である。前作で悲惨なところしかなかったさやかが活躍したり、マミ×ほむらのバトルがかなり力を入れて描かれたり、果ては大魔女バトルまでとファンにはうれしい見せ場がたっぷり。さやかと杏子のシーンに思わずほろりとしてしまったのは私だけではないだろう。アシッドなイヌカレー空間は今回も文句なし。「新しい魔法少女」なぎさはほとんど名前も呼ばれず、いささか扱いとしては中途半端だが。
そんなこんなで、ようやく苦しみ続けたほむらの煩悩が浄化され、成仏するシーンを迎えることになる。さやかとなぎさとともに「神」まどかが降臨するシーンのベタさときたら、まるでふたりの脇侍を従えた阿弥陀如来のご来迎ではないか。本来感動的な場面なのだろうが、どちらかというと馬鹿馬鹿しさにちょっとあきれてしまっていたら、ここで盛大にちゃぶ台がひっくり返される。ここからが今回の「新編」の「新編」たる所以だ。
ほむらの変容については確かに衝撃的ではあるし、その内面の必然性をストーリーの中で理解できたかといえば怪しいところ。しかし、いまあらためて考えてみると、前作はあまりに破綻なく世界が完結しすぎていた。物語として見事に着地して感動的だったし、まどか的秩序の統べる世界ビジョンは美しい。でも人間の営みの中でそのような秩序をはみ出す部分は必ず発生する。前作でまどかの秩序から唯一はみ出して残されていたほむらのまどかに対する強い思いがその秩序を破壊するきっかけになることは図式的には理解できる。
ほむらはそれを「愛」と呼んだ。彼女の薄ら笑いを浮かべた薄い唇からこの言葉が発せられる瞬間はなかなか衝撃的である。でも彼女の言う「愛」って何? たとえばすべての魔法少女を救済したまどかの行為は、まさにキリスト的な無償の愛「アガペー」の発現だった(いや仏様の「慈悲」だという人もいるかとは思うけど)。それに対して、ほむらの「愛」はプラトン的な「エロス」だろう。プラトンは「エロス」を人間を突き動かす原動力になる、美しいものや完璧なものを求める衝動と定義づけた。まどかがその名の通り「円環」=秩序を示す概念となって世界を再構築したのに対して、ほむらはまどか=秩序を愛おしみながら突き破る炎=衝動としてその世界を引き裂いた。ほむらの叛逆は、いわば神に対する人間性の叛逆だったのだ。ロケンロール!

一度ひっくり返したちゃぶ台の撤収は早ければ早い方がいい。
そういう意味では本作の幕引きは悪くなかったと思う。ただ、おかげでほむらの干渉したあとの世界の成り立ちはほとんど明かされないままだ。魔法少女の立ち位置はどうなったのか。まさか悪魔ほむらがいまさら序盤の閉じた世界で行われていた茶番じみた微笑ましい魔法少女ごっこに満足しているとも思えない。基本的な世界の構造はまどか改変後の魔獣が跋扈する世界なのだろうか。
本編のラストはほむらとまどかの今後の壮大な相克の物語を予感させる対話で締めくくられる。もはやほのかには不要になったまどかの「遺品」がまどかに返されるくだりは胸に迫る。オープンエンディングとしては余韻があってよいと思うが、すっきりと片付いた満足は与えられない。
いや、矛盾するようだが、実は世界を説明するような面倒くさい説明じみた描写などこれ以上この作品中には必要ない。そんなのは続編にでも任せておいて(いや別に続編すらなくてもいいのだが)、感情的に悪魔ほむらの魅力に魅入られるようなシーンが最後にもう一つあればそれだけでよかったのにな、と思う。

もしかしたらエンドタイトルロール後のシークエンスがそうなりえたのかな、と思う。嫣然と微笑みながら軽くステップを踏んで姿を消すほむらの姿は悪くないけれど、それだけでは弱い。それにしてもあのボロ雑巾のようになったキュウべえの意味は?確か逃げ出そうとしたキュウべえを「役割がある」とこの世界に放り込んだのはほむらのはずだ。ここでFinのクレジットが出るのだが、このパートは物語の終わりを告げるシーンというより、「いったいどうなってるの?」と新たなる物語への興味をひっぱる、ぶっちゃけていえば次回予告のワクだよなあ。
確か前作もエンドタイトルロール後に短いシークエンスがあって、その時は戦い続けるほむらの姿なのかな、なんて適当に考えていたのだけど、今思えばほむらの後ろには悪魔の羽のような黒い裂け目が広がっていたのだった。
続編については大歓迎だ。今回語られなかった新しい世界秩序(もしくは混沌)についてじっくり語ってくれる話があってもよいと思う。秩序破壊者として大きく成長したほむらは、もとより漠然とした概念的存在であるまどかなんかよりキャラクターとしてもはるかに魅力的だし、物語のすわりとしても、もう一度まどかが逆襲する話があるべきだろう。

******

見どころの多い前半部での白眉は,やはりなんといっても事の真相に気づいたほむらがまどかに真情を吐露するシーンだろう。
ほむらの千々の乱れる心情にシンクロして花畑が次々と色を変えるバックにずっと流れていた音楽が、大林宣彦の「時をかける少女」のメランコリックな劇伴を思い出させた。原田知世が唐突に「愛」を口にしてとまどうあのシーンの音楽だ。思えばあの映画のヒロインも、時を超えて彷徨い、ただひとり誰もその存在を知らない恋人を待ち続けるのだったな。

10月26日(土)大阪ステーションシティシネマ スクリーン1
11月1日(金)梅田ブルク7 シアター1


劇場版 魔法少女まどか☆マギカ[新編]叛逆の物語
2013年日本 116分

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【2013/11/08 00:08】 | 映画 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
エリジウム
たまたまとった平日の休みが「映画の日」で、1000円で観れるというのでひさしぶりに新しい映画を観に出かけた。大阪ステーションシネマで、「第9地区」のニール・ブロムカンプ監督の新作「エリジウム」。

開巻早々広がるのは人口増加でどこまでも荒廃したスラムが広がる近未来の地球。「第9地区」でもそうだったけど、この近未来スラムの造形が素晴らしい。建物や風景のみならず人物の服装や小物、埃っぽい空気まですべてに至る本物の汚れ加減。
これに対比されるのが一部の富裕層が移住した衛星軌道上のスペースコロニー、エリジウムだ。どんな病気さえも直してしまう医療ポッドが備えられたチリひとつない豪邸の、緑広がるよく手入れされた庭園で、こぎれいに着飾った善良そうな人々がカクテルを手に談笑している。

車泥棒から足を洗い工場勤めでなんとか日々の暮らしをやりくりすることで手いっぱいの主人公マックス(マット・デイモン)はある日工場内の事故で余命あと5日とされる。彼がエリジウムでの治療を求めて密航するために命じられた闇の仕事で、エリジウムの要人を襲撃し脳内のデータを盗み出すところから物語が大きく転がり出す。実はこのデータの中にはエリジウムの命運を左右する重要なプログラムが含まれていたのだった。エリジウムの実権掌握をもくろむ防衛長官(ジョディ・フォスター!)は地球上の潜入エージェントであるクルーガーを使ってマックスを確保しようとする。
この小汚い人格の破綻者のクルーガーがほんとにいやらしい。マックスの抱えた情報の重要性を知ったクルーガーはやがて長官の意を外れて欲望のまま暴走し始める。クルーガーやマックスたちを乗せた薄汚れた宇宙船がエリジウムの美しい緑の庭園を滅茶苦茶に破壊しながら不時着するシーンや、クルーガーたちが抵抗力のないエリジウムの指令本部の善男善女たちを手榴弾一発で殲滅するシーンの野蛮な暴力性には、目をそむけたくなると同時にどこか不思議に快感さえ感じさせられる。

ラストはいろいろ疑問もある。リブートってそんなプログラムだったの?とか、ああいうプロテクトをかけたプログラムをもともとどうやって取り出すつもりだったの?とか。
まあそこはあまり突っ込まない。プログラム作った当人はきっと取り出す前にいろいろ何とかできるはずだったんだろう。
ただその日を生き延びること以外に生きる目的を持たなかったマックスが、死を目前に宣告され生命の存続を強く求めて動き始め、さらには自らの生を賭すに足る役割を見出して英雄的な選択をすることになっていくそのプロセスが感動的だ。そのきっかけは無垢な子供の一言だというのが、いささか狡いところなんだけど、泣かせる。

冒頭汚濁にまみれた地球のスラムでエリジウムを仰ぎ見てその美しさにあこがれていた少年は、最後にその理想郷エリジウムで自分の手中の美しい地球を見つめて死んでいくのだ。

原題:Elysium
2013年アメリカ/109分

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【2013/10/05 10:43】 | 映画 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
イージー・ライダー
前に「桐島」を観た塚口サンサン劇場に「イージー・ライダー」がかかっていて今週末までだというので、観にいってきた。

たぶん映画館で観るのははじめてだと思う。最近はこういうクラシックな作品もデジタルリマスターでピカピカの映像だったりして、それはそれで悪くないのだけど、今回は35mmフィルムの上映と言うことで、経年によるフィルムの傷やゴミによる画面上のノイズや色あせ、コマ落ちなどもニューシネマのやさぐれ感にはフィットしている気がする。

この映画では、前のシーンとあとのシーンをザッピングするような、変わったつなぎ方をしているところが何箇所もある。フェイドとかの代わりなんだろうな、新鮮といえば新鮮だけどちょっと素人くさい。尺が長すぎて配給会社からの要求で泣く泣くカットして今の形に仕上げたという話があるから、たぶん行き当たりばったりに長廻しでとったぶつ切りのフィルムを繋ぐ苦肉の策だったのかもしれない。そんな繋ぎのところだったかシーンの間のインサートだったか忘れたけれど、映画中盤で、何の説明もなく、いきなりラストの炎上するバイクのショットが一瞬カットインしてちょっとドキッとさせられた。
 
最初の方でもモーテルの宿泊を拒まれるシーンなどもあったが、前半、中西部の農夫の家で食事をおよばれするシーンや、ヒッピーコミューンに立ち寄るあたりあたりまでは、主人公のピーター・フォンダやデニス・ホッパーは開拓者の系譜につながるアメリカ精神の継承者として明るいトーンで描かれている。
中盤ジャック・ニコルソンのドロップアウト弁護士が仲間入りするあたりから、素朴な開拓者精神とは裏腹なアメリカの現実が主人公たちに有形無形の圧力をかけるとともに、だんだん死の影があちこちに差し掛かってくる。ニコルソンは「人々は自由を語ることはするが、実際に自由を目の前にするとそれを恐れるんだ。恐怖は危険だ」といったことを語った直後に、まさにそういう自由を恐怖する連中によっていとも簡単に殴り殺されてしまう。先の炎上するバイクのインサートはこのあたりだっただろうか。
映画のクライマックスは二人がたどりついたニューオーリンズの謝肉祭なのだが、実録風に撮影されたマルディグラの映像はあまり使われていない。ニコルソンの紹介状を持って訪れた娼館はゴシックな教会のようなところで、エレクトリック・プルーンズの「主よ憐れみたまえ」が使われる。その後の墓場での娼婦たちとのLSDパーティではトリップの間じゅう使徒信条と主の祈りが流れ続け、weird極まりない。だいたいなんでわざわざこんな陰陰滅滅としたセッティングでLSDキめようとするかね。

ニューオーリンズをあとに再び旅に出る二人のバックに、ロジャー・マッギンの歌うディランの歌が流れる。例によって難解な歌詞だけど、この中でディランはアメリカの偽善を告発し、何者にも属さないでいることの大切さを歌っているようだ。まるでジャック・ニコルソンの死の直前のセリフのように。歌のタイトルは「ママ、大丈夫さ、血が流れているだけさ」という。
そしてこの直後が衝撃的なあのラストなのだけれど、これだけフラグが立っていると実は意外ではない。

カメラが川の流れにパンし、静かに流れ出すマッギンの歌が、主人公たちの心情を海に流れ込む川の流れになぞらえて代弁する。陰鬱なエンディングにもかかわらず、この空撮の解放感がカタルシスを与えてくれる。謝肉祭のあと教会の暦はキリストの受難を再現する四旬節から復活祭へ向かっていく。「川よ流れろ、海へ向かって」
ラストショットの川の流れに、ホッパーはアメリカの再生への祈りを込めていたのか。


***
ディランの元曲聞いたときにはぜんぜん気づかなかったのだけど、今回この映画でロジャー・マッギンの「イッツ・オールライト・マ」を聞いて、遠藤ミチロウの「お母さんいい加減あなたの顔を忘れてしまいました」とかなり雰囲気が似ているのに驚いた。黙示録的なヴィジョンとか、「お母さん」への呼びかけである点とか、影響を受けていてもおかしくないだろうな。

***
ラストのシーンは映画的にはかなり気色が悪い。バイクとトラックが切り返しで撮られているのだけど、トラックが前から写されているショットには後ろの路上にバイクが写っておらず、逆にバイクの向こうに走り去っていくトラックは写っていない。つまり、バイクとトラックが同じフレームに写るショットは存在しないんだな。これをもってたとえばあのトラックは実際には存在していなかったなんて深読みすることもできるのかもしれないけれど、多分、単純に別に撮ったショットをモンタージュでなんとかつなげたけどうまくつながらなかったってだけなんだろうな。

***
ネット上の複数の映画サイトで、この映画のあらすじに「マリファナの密輸で大金を手にした主人公たちが」とか書いてあってのけぞったよ。どこにマリファナを白い粉に精製してスニッフィングする奴がおる!?
Wikipediaにあるようにコカインが正解ですね。

Easy Rider

(1969アメリカ/カラー/1.85:1/95分)

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【2013/05/16 02:14】 | 映画 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
エル・スール/ミツバチのささやき
千里セルシーシアターで、ビクトル・エリセ監督の「エル・スール」と「ミツバチのささやき」を観た。どちらもおそらく80年代に日本ではじめて公開されたときに観て以来の再見だ
。「エル・スール」はTVで観たような覚えもあるな。
先に見た「エル・スール」が本当に素晴らしかった。

自然光を巧みに使った映像の素晴らしさはよく言われることだが、今回あらためて凄いなと思ったのは、音の使い方だ。
開巻のシークエンスはたいへん印象深く覚えていたとおりのものだった。ただの黒味バックのオープニングタイトルかと思っていると、徐々に画面右の窓から朝の光が差し込んできて、主人公の少女の部屋を少しずつ映し出していく。画面の外側から、母親があわただしく電話をかけたり「アウグスティン!」と夫の名前を呼んでいる声、犬の咆えまわる声が聞こえてただならぬ事態を推測させる。少女の晴れ舞台である初聖体拝領の日の朝から父親が外で撃つライフルの音、娘の寝ている部屋の外で交わされる父と母の諍いのやりとり、家出した父親がホテルで眠り込んでいる間に出発してしまう列車の音など、画面の外部からの音が常に重要な役割を果たしている。両親への子供らしい抗議の意を込めてベッドの下に身を潜めている娘の頭上で、屋根裏部屋から、いないと思っていた父親がステッキで床を突く音が響く。
不思議なのは、この間に娘が父親の隠された過去の一端を垣間見る、映画館のシーンだ。ある夕暮れ、娘は町の映画館の外に父親のバイクを見つけ、密かに映画館の外で父が出てくるのを待っている。そこでは父親が何度も名前を書き付けていた知らない女性の出演する映画が上映されいる。本来ここに聞こえるはずのないハミングが、画面の向こうから映画館の外観のショットにかぶさって流れる。映画館の中では父親がモノクロの映画の中で「ブルー・ムーン」をハミングする女性を見つめている。
このような画面の外の音が大きなクライマックスをもたらすのは、終盤のホテルの食堂での父娘の食事のシーンだ。子供時代の幸福な関係はすでに失われ、寒々とした空気の流れる通い合わない会話を終え娘が席を立とうとしたときに、となりの宴会場からあの幸福な思い出である初聖体拝領の日にふたりで踊った曲が流れてくる。立ち去りがけに娘がカーテン越しに覗くとカメラは頭上に大きく移動して音楽が奏でられている華やかな結婚式の様子を映し出す。画面の外にあった音楽は画面の中のものとなり、われわれ観客の心の中にも大きなうねりをもたらすこととなる。
正直なところ日本公開時に観た時には「エル・スール」には「ミツバチのささやき」ほどノレていなかった。後半の父親と娘の関係の変化があまりよくわかっていなかったのだと思う。考えてみたら最初にこの映画を観てから25年も経つわけだから、当時見えていなかったこともわかるようになるんだな。「南」におきざりにしてきたものを取り戻すことは適わず、自らの招いた事態とはいえ、過去をあきらめたふりをして過ごす現在の生活にも居場所を失っている父親の絶望感の深さには胸をかきむしられる。
ペシミスティックなストーリーだけど、父の形見を旅行かばんに入れ、「南」に発つ娘の期待に満ちたモノローグに、何処からともなくかすかに美しいピアノの調べが流れるラストシーンの、ほのかな希望にほっとさせられる。

「ミツバチのささやき」も良かったのだけど、「エル・スール」の印象が強すぎてかすんでしまった。並べてみると「エル・スール」の方がかなり洗練されているように思う。
当時主演のアナ・トレントの演技がたいへん話題になったけれど、お姉ちゃんのイザベルもなかなか良い。ちょっと意地悪な表情とか、心配そうに妹の様子をうかがう表情とか。
そして音についてはこちらも繊細に計算された印象的な使い方をされていた。父親の懐中時計から不意に流れ出すメロディやらミツバチの羽音、公会堂の外に漏れ聞こえる「フランケンシュタイン」のサウンドトラック、そしてまたしても汽車の音、銃声…。
さまよい歩くアナが森の奥のせせらぎの音だけが静かに聞こえる川辺で出会うエピファニーの瞬間。ラストの月の光に照らされたアナの表情にかぶさる姉イザベルのささやき声と汽車の音。
相米慎二の「お引越し」と2本立てにして見比べたらどうだろうな、と思った。

この映画のような、音と光が繊細に組み合わされ、はっとするような感動を生み出す本来の意味でのスペクタルは、やはり劇場で体験するべきだと思う。
今回の上映は千里セルシーシアターの40周年記念の上映だった。入れ替えありだけど、2本続けてみる場合は2本で1800円で見れるという特別料金設定。セルシーシアターは実家からも今の家からもいちばん近い映画館で、千里中央は子供のころからしょっちゅううろついているにもかかわらず、いままでほとんど入ったことはなかった。たしかついこないだまで二番館として梅田とかでやっている封切の作品を1ヶ月くらいしてからかけていたと思う。ところが映画興行の主流がシネコンになって、封切館も二番館も名画座もなんだかわからなくなり、さらに急激なデジタル化の進行の中で、いつの間にか独自のミニシアター路線を選ぶ道を選んでいたようだ。応援したい。豊中市でたったひとつの映画館なんだし。

エル・スール(原題:El Sur
(1983年スペイン・フランス合作/95分/イーストマンカラー/ヴィスタ)
ミツバチのささやき(原題:El Espiritu De La Colmena
(1973年スペイン映画/99分/イーストマンカラー/ヴィスタ)

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【2012/11/18 00:25】 | 映画 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
幸せへのキセキ
変な邦題だな。「キセキ」って奇跡? 幸せ「への」ってのもなんだか気色悪い。
まあふだんならまず見に行かない題名の映画なのだけど、二人の子供を抱えて妻を亡くしたマット・デイモンが動物園を買う話というのあらすじを聞いて興味がわいた。原題はシンプルに"We Bought A Zoo"、そのまんまでいい感じ。
実話に基づくとはいえ、ストーリーにはかなり脚色がされている。主人公の金策が万事尽き、あわや動物園を手放さなければならなくなったか、というときに…など、確かに「奇跡」のエクスキューズが欲しいような展開もある。でもそれがいやらしくなく受け入れられるのは、手堅い脚本と確かな演出の力だろう。
妻を失ったマット・デイモンや、その子供たちが愛する人の死を受け入れ家族を再生していくまでを描いた話だが、その触媒になる動物園の人々がいい。特にスカーレット・ヨハンセンのオトコマエな年増ぶり。自分に閉じこもってグロ絵ばかり描いている長男に興味津々のエル・ファニング(「スーパー8」の子だ!)は美少女過ぎて「男の子の経験の浅い純朴な田舎の少女」には見えないのもご愛嬌。心無い言葉で彼女を傷つけててしまったと悩む長男にマット・デイモンが「たった20秒間恥を捨てればいい」とアドバイスする。この「20秒の勇気」のシンプルなメッセージが最後の最後に再登場し、映画ならではのしかけで主人公たちが愛する人の死を受容する重要なシーンに奇跡のような感動をもたらす。見事な演出だ。

…「キセキ」はどうやら「軌跡」をかけてるようだ。だから「幸せ「への」」なのね。
まあ、それにしてもいただけない。

原題: We Bought The Zoo
(2011年アメリカ映画/124分/ヴィスタ/ドルビーSR・SRD

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【2012/06/16 00:50】 | 映画 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
太陽大感謝☆プレ☆祭り~発発発~(3/2、福島 pinebrooklyn)(承前)
さて、酒を追加して気持ちよくなったところで映画(といってもDVDのプロジェクター上映だけど)「ミツバチの羽音と地球の回転」の上映です。

上映に先立って監督の鎌仲ひとみさんによるレクチャーがあったのだけど、これはごく控えめに言って、「主張を分かりやすい言葉で伝えることに主眼をおいたトーク」で、正直なところ、短い時間で裏づけを出さずにそんなことをぽんと言い放ってしまっていいのっていうような乱暴な物言いが多々あって感心しなかった。「福島の汚染された食物が日本中に流通している」とかさ。

映画はまず、山口県の上関原子力発電所建設に反対する祝島の人々の生活を追う。ただ、祝島の反原発運動の歴史をひとつひとつおさらいすることに作り手の興味はなく、農業や漁業といった自然の恵みを主軸においた彼らの生活をたんねんに追っていくところがポイント。このあたりはなかなか画面に力があるし、出てくる人たちにも魅力があっておもしろい。ところが映画自体は中盤から舞台がスウェーデンに移り、原子力依存に変わる社会のあり方としてかの国で実践されている「持続可能な」エネルギーシステムの紹介にうつっていく。描かれる循環型社会のモデルは興味深いけれど、正直なところちょっとこのあたりの飛躍は無理があるし、かなり興がそがれてしまう。「映画としての出来が」なんて評価を作り手が求めてるとは思えないし、オルタナティヴな方策をアピールしたいという意図は判るけれど、祝島の人々の自然の恵みに根ざしたポジティヴな取り組みをいくら強調しても、それとスウェーデンの自立した持続可能社会との間には大きな開きがある。このような構成では、祝島の人々の困難が、絵に書いたように理想的なものとして描かれるスウェーデンの持続可能社会をアピールするためのダシになってしまう。おもしろいのも重要なのもこっちなのに。(ついでながら「持続可能な(sustainable)」という用語はエコの業界では普通に使われている言葉なのかもしれないけれど、一般的にはまだまだ親しみが薄いし、なにせ語呂が良くないので、も少し補足が欲しかった)
この映画のクライマックスは、終盤で上関原発着工にあたってのブイを運び込む作業を祝島の人々がピケを張って阻止しようとする場面だ。これまで祝島の人々の日常や(映画的には)その延長としての「持続可能な」社会をユートピックに描いていたこの映画が初めて「外部」と対峙することになる。海上で中電職員と祝島の人たちがやり取りをするこのシーンは非常にスリリングだ。生活の実感の中から発せられる祝島の漁師や農民の言葉の強さに、あからさまに空疎で弱い言葉しか発することのできない中電職員は返す言葉を失う。身体性の伴った言葉の強さを思い知らされるとともに、ここまで祝島の人々に寄り添ってきた観客は少なからぬカタルシスを感じように作られている(同様のやりとりが祝島の人々が陳情に出かける経産省でも役人との間で描かれる)。
でも僕はこのシーンで、やられっぱなしの中電職員の姿にも、どうしても感情移入してしまってるんだな。
組織の論理の中で精一杯の力ない言葉を発し続けている中電職員の姿は、僕自身の姿でもある。自然相手に自分の身一つで対峙する第一次産業の労働とは異なり、自分自身の労働力を企業に売ることで生計を立てている大半の僕らの姿だ。いみじくも映画の中で漁師のおっちゃんが、「あの人たちはかわいそうじゃ、自分の言いたいこともいえないから」というようなことを言っていたけれど、うらやましいとは思っても、誰もがそんな風にはして生計を立てられるわけではない。これはこの映画で提示される「持続可能な」社会に対する違和感にも通じる。つまり、来るべき「持続可能な」社会は確かに素晴しいと思うけれど、寄って立つべき「自然」のリソースをすでに持たない、都市生活者としての自分はいったいどうすればいいの、という部分。そこはこの映画の描くところではないのだけれど、いろいろと考える余地はありそうだ。
原発は(監督の人がトークでごく単純化して強調していたように)ごく一部の電力会社と官僚が札束を切って無理やり作ってるとは僕はあまり思わない。それじゃ一部の軍部と財界が日本を戦争に引きずり込んだというのと同じだ。

最後まで付き合ったといったけれど、実は、長い映画が円環を描いてオープニングシーンの海岸に戻ってきたところで、頭痛が最高潮に達したので失礼したのでした。すいません。このあとエンディングで、ミツバチのはばたきが地球の回転に影響を与えますみたいなニューエイジなメッセージがあったのかもしれません。僕は2階が満員だったので3階のカフェのソファでストーブにあたりながらゆっくり見られたのでまだましだったんですけど、2階のホールで床に薄い敷物1枚で観たみなさんは2時間10分ほんとにお疲れ様でした。

あー、あと、豚の食欲はすごかった、豚を5・6匹放し飼いにすると、鼻先を土に突っ込んで植物の根っことか全部食べてしまうので、荒地が1週間で畑として使用可能な状態になってしまうという。あれはインパクトありました。

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【2012/03/07 23:14】 | 映画 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
ヒミズ
先月TOHOシネマズなんばで観た園子温監督「ヒミズ」について。
最近のコミックについてはほとんど門外漢なので、古屋実の作品はこの「ヒミズ」どころか「稲中」すら読んだことがない。だから原作と比べてどうだということはないです。
いきなり大震災の津波被災地の映像から映画は始まり、その後も原発事故のニュース映像が流れたり、全編を通じて311以降の閉塞感が通低音として流れ続ける。被災地や震災を見世物にすることの是非とかいうことではなく、これだけの強度を持った現実の映像を(あえて言えば)「見世物」として成立させる困難に果敢に挑戦し、それなりの成果を上げている点を評価すべきだと思う。さすが、「自殺クラブ」とか「愛のむきだし」「冷たい熱帯魚」「恋の罪」と、現実の事件を積極的に取り込んで作品化してきたエクスプロイテーション作家園子温の面目躍如というところか。
瑕疵のない作品ではない。主人公がなぜ「オマケ人生」をあのように遂げなければならないと考えるようになったかが、実はなんだかよくわからない。ただ、世間の欺瞞を戯画的な誇張で描き出させたら園子温はピカ一だ。たとえば素晴しく立派な授業をしているのに、それがすべておためごかしとしか感じられない二人の主人公たちの学校の教師の描かれ方、とか。だから主人公や、主人公の分身である通り魔の心情に(恐ろしいことに)感情移入できてしまう。クソ幸せそうに安っぽい愛を歌うストリートミュージシャンと通り魔のシーンで心の中で「刺せ!刺せ!」と思わなかった者はいるだろうか?
あいかわらず過剰な描写の連続で、主人公の少年少女も容赦なく暴力的な荒廃した世界に晒され続ける。文字通り体を張って泥だらけびしょぬれになりながらも傲然と胸を張って世界に対峙する彼らの不屈のまなざしがいい。特に精神的に崩壊をきたす主人公を救い出す二階堂ふみの力強さ。人の救いは、かれの個人的な領域に土足で踏み込んでいくような、しかしそれを引き受けようというかのじょの個人的な覚悟から産み出された言葉にしかない。ラストのまったく救いのない、いつまでも行き着きそうにない未来に向けて二人が走るシーンは、だから特別に心を揺り動かされる。地震以降もっとも繰り返されたであろう言葉が、二人の間で切実な救いの呪文のように繰り返される。そしてそこに重ねて映し出される言葉を失うような被災地の光景。エクスプロイテーション(搾取)の借りは返された。

ヒミズ
(2011年日本/120分/カラー/アメリカンビスタ/ドルビーSR)

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【2012/02/17 01:57】 | 映画 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
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